革命的悪文日記

ネコに飼われている学生が悪文で色々書いています

メディア報道について

ツイッターで「ニュース番組内でコメントは要らないから事実のみを伝えてほしい」というつぶやきを見ました。
「コメントを入れているのはニュースではなくワイドショーだ」なんて野暮なツッコミはしませんけれど、ニュースが伝えている事実も事実であって事実ではない仮想の現実なんですよね。


例えばですけれど、生中継をしていたらそれは事実しか報道していないということになるのでしょうか。生中継であろうとカメラは固定されており、映らない部分や意図的に隠している部分があるかもしれませんし、音楽による気分誘導、文脈効果によって同じ映像であっても前後のカットによって印象が異なってくるなどということは往々にしてあります。

1951年にラング夫妻がマッカーサーのパレードを対象に行った研究があります。テレビ中継されたパレードでは、人々が拍手でマッカーサーを迎え、熱狂的でドラマティックなパレードであったそうです。しかし、現場の31か所に研究員を配置して観察したところ、見物人の多くは静かで、パレードが通り過ぎるとすぐに解散してしまうなど、それほど熱狂的なものではなかったということでした。この実験から「カメラが映す部分」と「映さない部分」が存在し、それによって人々は全く正反対の印象を受ける様子が分かります。

例え生中継であっても、スタジオの意向でカメラのセッティング、BGM、アナウンスなどは決められ、それに沿った形で中継が行われるため、メディアが現実をありのまま報道しているということではないです。また、中継以外の新聞やニュース番組でも文字数や時間の制限から、情報は絞って提示されています。メディア報道は(テレビ、新聞に限らず、ネットなども含み)必ず誰かの視点で現実を再構成したものであって、現実そのものではないんですよね。
『私たちはみんなイメージの世界の中を生きている』
内山節「新・幸福論」より
この言葉は私たちがスタジオで作られた世界観の中で生きているというメディア報道の特徴を分かりやすく端的に表現しています。
このような「メディアが作った世界観+その世界観を信じている環境」のことをW.リップマンは『疑似環境』という言葉で表現しています。なんだかゲティア問題みたい。
疑似環境の最も分かりやすい例としては、大本営発表を信じていた第二次世界大戦中の日本ですね。国民は負けていることに気がつかなかったそうです。

戦争中は情報統制が厳しくなるため、公の情報や、都合のいい情報のみが認可されるなど、報道の自由度が下がります。報道の自由度が下がると、ただでさえ遠い現実からさらに遠ざかることになるため、様々なメディアからそれぞれの立場で報道できるというのはとても重要であるということがわかります。


報道を見る側もステレオタイプによって情報の選択を行っている~という話も書こうと思ったのですが、座っていると前立腺炎が痛むので今日はここまでにしておきます。気が向いたら続きを書きます。